1949年から1989/1990年まで、ドイツ民主共和国においては、ドイツ社会主義統一党の支配が続いていた。この支配の検証に、政治的にいかに取り組んでいくかという問題は、ドイツ統一のきわめて困難な側面のひとつである。記憶文化と過去の検証という領域においては常に党派的立場が表明されるということを度外視しても、西部ドイツの人々と東部ドイツの人々の相違は、引き続き表面化している。しかし特にまたここでは、1989/1990年の秋と冬にドイツ民主共和国の崩壊が再統一プロセスへと急速に移行することによって中断していた取り組みが、ようやく後になってから、記憶政治学的手段を用いて遂行されている。該当者の多くはそうは思っていないとはいえ、ドイツ民主共和国のエリートたちは、これにより、連邦共和国の法制度の庇護(および社会国家による保護)を受けることになった。このことは、この革命にも似た体制変革が平和裡に進行するにあたって、重要な貢献を果たしたのである。
ドイツ人は、隣国のフランス人とは異なり、これまでは、世界史の歩みに革命によってかかわることができなかった。しかし、フランス革命からちょうど200年後、中東欧における自由と市民権を求める大きな運動の一環としての平和革命により、ドイツは、きわめて印象的に、ヨーロッパの革命の歴史に記されることとなった。これは「西側への道」(ハインリヒ=アウグスト・ヴィンクラー)における重要な一歩であった。そしてこれにより、再統一されたドイツは、特殊な道を歩むことを終えたのだ、ということもできるであろう。